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Blog:大地X暮らし研究所

スローライフ再論「グローバルからローカルへ」辻 信一

執筆者の写真: naoko babanaoko baba

スローライフ再論④「グローバルからローカルへ」辻 信一

『よきことはカタツムリのように』(春秋社より)


集合的意識の胎動


長い間、環境運動家を名乗っているぼくだが、いまでも、不思議と言うしかない。地球上にかつて存在した生物の中で最高に知的な存在であるはずの人間が、自分の住処である地球とその自然のメカニズムを狂わせているのだから。自然生態系は人間の生存にとってなくてはならない最低限の条件。その破壊が止まらないとすれば、その先にあるのは、人類としての”死”に他ならない。

悪魔に魂を売ったのでなければ、一体、何と引き換えに、そんな自滅への道を選ぶのか。それが問題だ。


こんなことをぼくが言うと、必ず返ってくるのが、「そうは言っても現実は…」という話だ。そこでいう「現実」とは、景気とか、株価とか、選挙とか、のことであり、個人のレベルなら、雇用であり、給料であり、ローンだ。そしてそれらをまとめて一言で言えば「経済」、もっと平たく言えば、「お金」。それが「現実」という”物語”のテーマであり、主人公なのだ。そして両脇を固めて、主人公を支えるのが、科学技術。


その他のこと、人権、民主主義、平和、福祉、コミュニティ、愛、などというイシューは、どうなってしまったのか。もちろん、誰だって一定の価値をそれらに認めないわけではないが、結局のところ、「そうはいっても現実は…」とうところに落ち着いてしまう。

こうした”物語”を世界規模に広げたのが、グローバル化と呼ばれるものだ。本来、「グローバル」とは「世界的」や「地球的」という肯定的な意味をもつ大切な言葉だったはずだ。それが、多国籍、無国籍の大企業や大銀行による、障壁のない自由な通商を表現する言葉へとすり替えられてしまった。


一方の「ローカル」は、どうか。中心に対する周縁、都会に対する田舎、コスモポリタンな意識の広さやセンスのよさに対する、視野の狭さ、古臭さ、文化度や生活水準の低さ、など、「とるにたらないこと」の代名詞にまで貶められてきたのだ。


グローバル・システムの”不都合な真実”が明らかになりつつある今でも、メディアは、グローバル経済讃歌を歌ってやまない。確かに、一見、グローバル化は、そのための新自由主義経済政策は、そしてTPPに代表される規制緩和や貿易自由化の流れは、加速し続けているように見える。


しかし、だ。メディアにはなかなかとりあげられないが、今、世界中で、経済の再ローカル化の動きが広がっている。その軸となるのが、ローカルフードであり、地産地消型の地域に根差した農林水産業だ。日本もその例外ではない(異例のベストセラーとなった『里山資本主義』(2012年)以来、そうした草の根の動きが時折、主流社会の表面に現れ出るようになった)。


特に東日本大震災以降、被災地からの人口流出が急増する一方で、すでにそれ以前から始まっていた都会から地方へ、という流れもまた一層強まった。若い世代に農的営みや無農薬・無添加・オーガニックなど食の安全への関心が高まり、脱原発とともにエネルギーの地域自給への思いも強まった。半農半X、パーマカルチャー、シティ・ファーミング、移住、CSA(地域が支援する農業)、ファーマーズ・マーケットやマルシェ、エディブル・スクールヤード、有機農業・自然農法、「森のようちえん」、などに関与し、参加する人も増える一方だ。


世界中で進むこうした様々な動きは、今はまだバラバラで雑多なものにしか見えないかもしれない。しかし、ぼくには、それらを貫くようにして、その基底に、ある重要な集合的な意識が働いているように思えてならない。




千葉県いすみ市のパーマカルチャーと平和道場。中心的存在のソーヤー海くん(左から三人目)

「難民としての自分」からはじまる


世界のあちこちに、難民が溢れている(注参照)。そして、その難民が向かう先々に、難民排斥の動きがエスカレートしている。


ぼくは思うのだ。これまで幾多の戦争が難民を生み出しただけでなく、難民を生み出すような状況が戦争を引き起こしてきたこと。そしてもうひと