昨日は、”ムダ活のすすめ”の最後に、サティシュによるバガバット・ギータの言葉を引用した。今日舞岡の森を散歩して、何の役にも立たない写真を撮りながら、ふと、せっかくだから、その引用が出てくるサティシュの文章を紹介したいと思った。以下、『エレガント・シンプリシティ』(NHK出版、拙訳)の第4章「行いのヨーガ」からの抜粋だ。
バガバッド・ギータが書かれたころのインドには、世俗社会を捨てて出家するよう人びとをあと押しする運動があった。仏教の祖ブッダ、ジャイナ教の祖マハビールをはじめ、その後に続く信者たちの多くは王家や大土地所有者の家から出て、僧院に入った者たちだった。ギータは、こうした流れに逆らう。たとえば、クリシュナはアルジュナにこう言う。「世界への執着を捨てよ。だが、世界そのものを見捨てるな。世界で行為することをあきらめるな」 こうしてギータは、行いのヨガ(カルマ・ヨガ)の深遠な教えをこのうえなく明瞭な形で示してくれる。行為はすべての人にとっておのずから起こることであって、避けることはできな い。だれもが「行う」必要がある。からだはそうできている。部屋に座らされて、一週間、あるいは一か月のあいだ「何もしてはいけない」と命じられてよろこぶ人はいないだろう。私たちはみな動くことへの衝動をもっている。庭仕事、料理、つくると、建てること、たねまき、歌うこと、踊ること・・・。行為は自足へと向かう道だ。行為は美しい。行為の結果、ごほうびがもらえるのではない。行為それ自体がよろこびや楽しさというごほうびなのだ。
ギータは行動に参加し、取りくむことを私たちにうながす。その結果を心配することなく。賞賛や成果に恋いこがれることがなければ、行為そのものに集中することができる。そうすれば、その行為はおのずから、最良、最上のものになるはずだ。もし、行為の果実を求めなければ、私たちは傲(おご)りから、我欲から、解きはなたれるだろう。ギータはこう教えている。 「行いを捨てるな。その行いの果実への欲求を捨てよ。けっして世界を捨てるな。世界への執着を捨てよ」
行為は、他者への贈りものであり、奉仕であって、自分が得をするためのものではない。病気の人、年老いた人、おなかをすかせている人を前にして、行為することなしにどうやってその人を助けることができるだろう? 行いはお互いさまなのだ。行為は、つねに相手との関わりのなかで、愛や思いやり、慈しみや親切のこころとともに与えられ、そして受けとられる。すべての行為は一種の奉仕だ。たとえば、庭仕事は、大切な近親者への奉仕であるばかりか、その土地を世話することであり、土への返礼でもある。
Yorumlar