咲き急いだ桜が、行き急ぐかのように散りゆく3月末、坂本龍一さんが亡くなった。同世代の音楽家、思想家、そしてアクティビストとして、彼を敬愛してきた。住んでいたモントリオールで、フレンチ・カナディアンの友人が、YMOのファンで、政治風刺のコントと音楽を組み合わせたテープを貸してくれたのが、最初だった。日曜日ごとに、サンロラン大通りにある行きつけのKILOというカフェで、分厚い日曜版の新聞を読みながらブランチをとっていると、必ず、「メリークリスマス・ミスターロレンス」がかかった。今思えば、ぼくにとっての一種のゴスペルだったような気がする。
2000年代の初めに初めてお会いして以来、さまざまなありがたいご縁をいただいてきた。
そのご縁は、一月に刊行された拙著『ムダのてつがく』まで続いている、とぼくは勝手に思っている。
この本を書くことになったきっかけの一つが、坂本さんの「ムダを愛でよ」という新聞記事の中の言葉だった、というのは本当のことだ。
以下、『ナマケモノ教授のムダのてつがく』、第一章「ムダを省くということ」から、坂本さんのインタビュー記事に触れた部分をそのまま、引用させていただく。そこにある言葉は、ぼくにとって、坂本さんの遺言だ。
改めて、坂本さん、多くのすばらしい音楽を、言葉を、活動を、ありがとう。魂の平安を祈っています。
<役に立つ・立たないの枠の外へ>
コロナ禍が始まって間もない2020年の5月、尊敬する音楽家、坂本龍一のインタビュー記事を読んで、心洗われる思いがした。それは、「“無駄”を愛でよ、そして災禍を変革の好機に」(朝日デジタル)と題されていた。
坂本はまず「今回のコロナ禍で、まさにグローバル化の負の側面、リスクが顕在化した」と指摘する。生産拠点を海外に移してグローバルなサプライチェーンを築く。国外の安い労働力に依存する一方では、国内の労働力の非正規化を進める。こうしたやり方がうちに抱えこんだ矛盾が、パンデミックの広がりのなかで、顕わになったというのだ。坂本はそれを「グローバル化のしっぺ返し」と呼ぶ。
そしてこれに対処するには、「もう少しゆとりというか遊びを持った、効率とは違う原理をもつ社会の分野を、もっと厚くしないといけない」と言う。
社会保障を充実させることはもちろん、医療で言えば、人員も病床ももっとバッファを持った体制をつくるべきだし、経済で言えば、国内の雇用を安定化させ、生産も、より自国に戻していくべきです。
「ゆとり」や「遊び」は、効率を第一義とする経済合理主義にとって、ムダなものとしか見えない。逆に、そうしたゆとりや遊びという「ムダ」をどれだけ抱えているかが、少なくとも社会の成熟度の指標となる、と坂本は考える。
今回のコロナ禍であらためて顕わになったのは、国による音楽や芸術への理解度の違いだ。文化相が「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、我々の生命維持に必要」だという考え方に基づいて、文化施設と芸術文化従事者の支援に手厚い予算を組んだドイツとは対照的に、日本の政府や行政による支援は乏しい。草の根で、クラウドファンディングなどでアーティストやミュージシャンを支援する「動きが広がっているのは、本当にうれしい」と坂本。
でもその一方で、彼はこうも言う。
根本的には人間にとって必要だからとか、役に立つから保護するという発想ではダメです。芸術なんてものは、おなかを満たしてくれるわけではない。お金を生み出すかどうかも分からない。誰かに勇気を与えるためにあるわけでもない。例えば音楽の感動なんてものは、ある意味では個々人の誤解の産物です。(中略)何に感動するかなんて人によって違うし、同じ曲を別の機会に聴いたらまったく気持ちが動かないことだってある。
坂本は、「役に立つアート」という考え方そのものに危うさを感じる。かつてナチス・ドイツがワーグナーの音楽を国民総動員に利用するとともに、役立つアートと役立たずのアートを峻別した。アートを政治目的に利用したのは、戦時中の日本や旧社会主義圏の国々も同様だ。自分自身の音楽についても、「何かの役に立つこともない」し、「役に立ってたまるか、とすら思います」と言う。
芸術なんていうものは、何の目的もないんですよ。ただ好きだから、やりたいからやってるんです。ホモサピエンスは、そうやって何万年も芸術を愛でてきたんです。それでいいじゃないですか。
グローバル化がもたらした危機を、さらなるグローバル化によって、さらなる効率化や合理化によって切り抜けようとするのか、はたまた、「役に立つ」という発想そのものを超えて、遊びやゆとりといった「ムダ」をあえてとりこんでいくのか。社会は曲がり角に立っているようにみえる。坂本のインタビュー記事の見出しに、こんな言葉があった。
「芸術なんて役に立たない」 そうですけど、それが何か?